中国医学はいかにつくられたか

中国医学の歴史を調べていて手にとった本です。

著者は科学史を専門とする山田慶兒(けいじ)氏(1932−)です。
本書は中国医学の歴史を概観したものです。

科学と歴史に精通した専門家が語る中国医学史
山田氏は京都大学理学部を卒業後、人文科学研究所に所属して科学史を研究しました。
文系と理系の双方をまたぐような分野を得意とし、中国思想、自然哲学などで多くの著書を著しています。
本書もそうした流れの一環にあるもので、独自の身体観を持つ中国伝統医学を、その黎明期から丁寧に記していました。

観察と分析で積み上げた医学体系
中国医学の創始者は、伝説上の神に仮託しています。
しかし神々と三皇五帝と言われる伝説の存在の影には、無名の人々の長い試行錯誤の様子が伺えました。
「この薬草が効いた」「このツボが効いた」
経験主義による対症療法から、背後にある理論を探り、1つ1つ知見を積み重ねながら後世に引き継ぎました。

対症療法を脱却して理論を示した黄帝内経
こうした地道な努力が初めて形となったのが、現存する最古の医書である「黄帝内経」です。
原書は残っておらず、散逸、加筆が繰り返されたので、元の形は想像するしかありません。
中身も一貫性がなく、論述だったり、問答だったり、論の矛盾もあって読者を悩ますようなハードルの高さがあります。
しかし形のないものに、理論という芯を通そうとした画期的な出来事でした。

内経が示そうとした理論とは、自然や人体を観察して分類・抽象化して得たものです。
それは「世界は陰陽という対立する2つの要素が、相互に躍動することからなる」という哲学でした。
陰陽は集まったり分かれたりを繰り返し、木火土金水という「五行」や天沢火雷風水山地という「八卦」に変化し、世界を形作っていると考えました。
身体観も自然の観察から得た、気や血を風や河川に例えた「流体モデル」が採用されました。
体内には経絡や血脈という通路を気や血が循環していて、特定の治療点でこの流れに影響を及ぼすというものでした。
病気とはこうした循環が、温度など外部要因やストレスなど内部要因、生活習慣の乱れによって滞り、調和を失うことで生じると考えたのです。

黄帝内経の混沌に秩序を与えた難経
時代は下っても混沌に満ちた黄帝内経を整理・体系化する試みは続けられ、その労苦は「難経」という書で結実しました。
これは黄帝内経の解説書で、タイトルにある難とは「疑いを正すこと」です。
体のあちこちで調べていた脈診を手首に集約し、わかりにくい三焦を腎にある原気を各臓に巡らせる「働き」のことだと定義しました。
治療体系も、経穴に五行理論を応用して「五兪穴」として分類しました。
これは湧き水が川になって湖に注ぐ経過をなぞらえたもので、湧きでる「井」、集まって滞る「栄」、注いでいく「兪」、流れ行く「経」、流れ込む「合」の5つでツボを分類しています。
これは経絡内にある1つのツボが別の臓器にも影響を及ぼすというもので、治療での立体的な運用が可能になりました。

初めての臨床医学書となった傷寒論
中医学の体系化が進んで、臨床医学書として完成を見たのが「傷寒雑病論」です。
症状と診断、処方が密接に結び付けられ、それらを一貫した理論が貫いている完成度の高いものでした。
診断が即処方につながるとして、日本漢方では「方証相対」と呼んで現在も利用されています。
傷寒雑病論の理論は、冷たい空気などの外部からの影響で体にどのような症状が現れるかを6つの段階で整理したものです。
この6つを六経位と呼び、16世紀に提示される「八綱」という分類法を経て「弁証論治」へと飛躍する基礎となりました。

本書は古代から連綿と続いた人々の努力が、1つの完成をみた唐代までを記して筆を置いていました。
中医学はこの後も内的な要因を研究した陳無択(ちんむたく)の功績や金元四大医家、李朱医学、日本漢方などを絡めながらダイナミックに展開していきますが、それらは割愛されていました。
しかし失われた文献の隙間を博学な知識で埋めながら丁寧に説明されていて、読み応えがありました。